オリエントの4国分立時代 [0101古代オリエント]
バビロン捕囚 エグザイル [0101古代オリエント]
アッシリア帝国 オリエントの統一 [0101古代オリエント]
カデシュの戦い 最古の国際条約 [0101古代オリエント]
紀元前1286年ごろ、小アジアのヒッタイト王ムワタリと、シリアに進出したエジプト新王国のラメセス2世の軍隊が、カデシュで衝突した。このカデシュの戦いは、一時ヒッタイト軍が優勢であったが、ラメセス2世の勇戦によってエジプト軍が態勢を取り戻し、勝敗決せず終わった。これによってエジプト新王国はシリアの領土を確保することができた。その後、前1269年頃には、エジプトとヒッタイト両国の間で、平和同盟条約が締結された。この条約は現在知られている世界で最初の国際条約といわれている。
用語集に補足必要 「カデシュの戦い」は山川出版社『詳説世界史B』2008版には記載がありません。また山川用語集やその他の用語集には「カデシュ」という地名では説明されていますが、世界最古の国際条約という意義についてはふれられていません。しかし、入試では「カデシュの戦い」として問われることがあるので、ここで補足しておきます。出題例は下に掲載しました。世界最古の法典-シュメール法典 [0101古代オリエント]
世界最古の文字 [0101古代オリエント]
シュメール人の横顔 [0101古代オリエント]
メソポタミア文明を生み出したシュメール人の建設した代表的な都市国家遺跡にウルがある。ユーフラテス下流で、1922~34年にギリス人のウーリーによって発掘され、神殿とさせる施設(いわゆるジッグラト)と、多数の楔形文字をしるした文字盤、住居跡などとともに王墓が発見された。研究の結果、前2500年頃のウル第一王朝の王墓であることが判明した。王の遺骨の周りには高価な家具や装身具とともに、多数の殉死者や兵士、牛の遺骨が発掘された。その中でひときわ目を引くのが、「ウルの軍旗」(または「ウルのスタンダード」)といわれる遺物である。ここにはウルの兵士たちの戦いの場面と平和の場面が描かれていると言う。シュメール人は「民族系統不明」とされているのだが、この資料によってその風貌を知ることができる。そこに出てくるシュメール人兵士は、みな一様に横を向き、しかも異様に大きな目と鼻を持っている。「ウルの軍旗」は現在は大英博物館に所蔵されている。2002年度のセンターテスト世界史B追試で出題されたので、それを参考に見てみよう。
シュメール文化-学校の起源? [0101古代オリエント]
前4000年紀前半にメソポタミア南部に移動してきたと考えられており、その世紀の終わり頃、メソポタミア地方南部の平野部で、麦類やナツメヤシの栽培、牛や羊、山羊、豚などの飼育を行い、キシュ、ウル、ウルク、ラガシュなどの最初の都市文明を生み出した。彼らの残した都市遺跡として最大のものがウルクである。ウルクは城壁に囲まれ、公共建築物をもち、約230ヘクタールの居住地をもっていた。ウルクに次いで繁栄したウルの遺跡からは王墓が発見されている。またシュメール人は、楔形文字を生み出し、最古の神話「ギルガメシュ叙事詩」を残しており、最近では多数出土した粘土板でシュメール法典の存在が注目されている。彼らの文化は、メソポタミア文明の最初の段階であるシュメール文化と総称される。最近の楔形文字を記した粘土板の解読によると、すでに役人を養成する学校が存在していたという。
メソポタミア文明 [0101古代オリエント]
7世紀のイスラーム勢力の勃興以来は、バグダードがアッバース朝の都として建設されてからイスラーム文化の中心となって繁栄したが、13世紀にはモンゴルの侵入を受けるなど多くの苦難もあった。長くオスマン帝国の支配を受けた後、近代ではアラブ系住民の独立運動が起きるが、シリア方面からはフランス、インド・イラン方面からはイギリスが進出し、第1次大戦から第2次大戦後まで委任統治領として分割支配された。現在は大部分がイラク共和国に含まれるが、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、イラク戦争などうち続く戦争によってメソポタミア文明の貴重な遺跡が失われる危機に瀕している。