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オリエントの4国分立時代 [0101古代オリエント]

前612年のアッシリア帝国の滅亡後に、オリエント世界はふたたび分裂時代に入り、4つの王国が分立した。メソポタミアには新バビロニア(カルデア)、イラン地方にはメディア、小アジアにはリディア、それにエジプト王国が復活、この4王国が抗争し、メディアから起こったアケメネス朝ペルシアがオリエント世界を前525年に再統一するまでを4王国分立時代という。教科書ではサラッとすぎてしまうところだが、この4国にはそれぞれ面白い(注目すべき)話があるので、見ていこう。


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バビロン捕囚 エグザイル [0101古代オリエント]

「バビロン捕囚」は英語で、the Exile という。そう、エグザイルである。あの人気グループが EXILE と名乗った理由については、彼らのオフィシャルサイトを見ても説明はないが、グループを作った当初は売れずに苦労したらしい。その苦難の時期を「捕囚」にたとえたのかも知れない。長い下積みを経てようやく認められてブレイク、今や天皇即位20周年奉祝曲を晴れがましく歌い踊るという彼らの軌跡と、何となく神がかった(現代風におどろおどろしい)スタイルが、バビロンに囚われの身となって苦労の末、解放されてイェルサレムに戻りヤハウェ神殿を建てたというユダヤ人と重なり合う気がする。冗談はさておき、世界史学習上での「バビロン捕囚」はどう理解したらよいだろうか。ちょっと探ってみよう。

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アッシリア帝国 オリエントの統一 [0101古代オリエント]

アッシリア人はメソポタミア北部に起こり、前9世紀に鉄製の戦車と騎兵を使って有力となり、前8世紀末にサルゴン2世がメソポタミアの分裂時代を終わらせて統一し、アラム人ヘブライ人を支配下に組み込んだ(ヘブライ人のユダ王国だけは独立を保った)。さらに前7世紀中ごろの前663年にアッシュール=バニパル王エジプトを征服して、初めてオリエント全域を統一、「世界帝国」としてのアッシリア帝国を作った。最盛期の都ニネヴェの遺跡からは大量の楔形文字を記した粘土板が発掘され、世界最古の図書館とも言われている。しかしその支配は、軍事力による過酷なものであったためか、被支配者の諸民族が反発し、それを抑えるため軍事力に力を注いだ結果、次第に国力を消耗し、前612年新バビロニア(カルデア)とメディアの連合軍によって首都ニネヴェを占領されて滅亡した。 アッシリア帝国の公用語は楔形文字で粘土版に書かれたアッカド語と、パピルスにアラム文字で書かれたアラム語であった。これに関して、2005年の東大入試で出題された。→下掲

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カデシュの戦い 最古の国際条約 [0101古代オリエント]

紀元前1286年ごろ、小アジアのヒッタイト王ムワタリと、シリアに進出したエジプト新王国のラメセス2世の軍隊が、カデシュで衝突した。このカデシュの戦いは、一時ヒッタイト軍が優勢であったが、ラメセス2世の勇戦によってエジプト軍が態勢を取り戻し、勝敗決せず終わった。これによってエジプト新王国はシリアの領土を確保することができた。その後、前1269年頃には、エジプトとヒッタイト両国の間で、平和同盟条約が締結された。この条約は現在知られている世界で最初の国際条約といわれている。

用語集に補足必要 「カデシュの戦い」は山川出版社『詳説世界史B』2008版には記載がありません。また山川用語集やその他の用語集には「カデシュ」という地名では説明されていますが、世界最古の国際条約という意義についてはふれられていません。しかし、入試では「カデシュの戦い」として問われることがあるので、ここで補足しておきます。出題例は下に掲載しました。

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世界最古の法典-シュメール法典 [0101古代オリエント]

現存する世界最古の法典は「ハンムラビ法典」-と長い間言われていた。現在も、山川出版社の改定新版『山川 世界史小辞典』(2004年刊)には、ハンムラビ法典の項で、「実物が現存する世界最古の法典」とされている。しかし、定番教科書とされる山川出版社『詳説世界史』(2008年刊)では「世界最古」の記述はなく、定番の用語集である同社『世界史B用語集』(2010年刊)には「シュメール法を継承し、集大成した成文法」と説明されている。ところが、この用語集には「シュメール法」の項目がない。これでは不親切な感がある。また、最近のベストセラーらしい同じ山川出版社の『もういちど読む山川世界史』(2009年刊)では、世界最古とは言はず、「ハンムラビ法典は、オリエント諸国のその後の法典編纂の規範となった」と説明されているが、シュメール法には触れていない。そこで、「シュメール法」とは何か、他の教科書や用語集ではどう扱われているか、調べてみました。

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世界最古の文字 [0101古代オリエント]

現在知られている世界最古の文字資料として、メソポタミア文明の中で、シュメール人が築いた都市国家の一つ、ウルクの遺跡から出土したものであるとされている。ウルクから見つかった粘土板は約800枚(断片を含めると約3000枚)、紀元前3200年頃のものとされており、絵文字またはウルク古拙文字とも言われる。ウルクの絵文字には約1000の文字が使用されているが、完全には解読されていない。しかし、大部分が家畜や穀類、土地などについての会計簿であることがわかっている。完全な表音文字にはなっていないが、中国の甲骨文字よりも約1800年ほど早い、最古の文字である。さらに最近では、絵文字に先行する資料としてトークンといわれる粘土製品が注目されている。それは物の数量および種類を表すための道具であり、トークンから文字が生まれたのではないかと考えられている。

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シュメール人の横顔 [0101古代オリエント]

メソポタミア文明を生み出したシュメール人の建設した代表的な都市国家遺跡にウルがある。ユーフラテス下流で、1922~34年にギリス人のウーリーによって発掘され、神殿とさせる施設(いわゆるジッグラト)と、多数の楔形文字をしるした文字盤、住居跡などとともに王墓が発見された。研究の結果、前2500年頃のウル第一王朝の王墓であることが判明した。王の遺骨の周りには高価な家具や装身具とともに、多数の殉死者や兵士、牛の遺骨が発掘された。その中でひときわ目を引くのが、「ウルの軍旗」(または「ウルのスタンダード」)といわれる遺物である。ここにはウルの兵士たちの戦いの場面と平和の場面が描かれていると言う。シュメール人は「民族系統不明」とされているのだが、この資料によってその風貌を知ることができる。そこに出てくるシュメール人兵士は、みな一様に横を向き、しかも異様に大きな目と鼻を持っている。「ウルの軍旗」は現在は大英博物館に所蔵されている。2002年度のセンターテスト世界史B追試で出題されたので、それを参考に見てみよう。

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ウルの戦車 牽いているのは馬かロバか?(これはウルのスタンダードの戦闘場面の一部)

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シュメール文化-学校の起源? [0101古代オリエント]

紀元前4000紀(前3000年代)、メソポタミアで都市文明を最初に生み出したのがシュメール人である。民族系統は不明だが、メソポタミア地方南部で、都市を形成し、メソポタミア文明の基礎を築いた民族。
前4000年紀前半にメソポタミア南部に移動してきたと考えられており、その世紀の終わり頃、メソポタミア地方南部の平野部で、麦類やナツメヤシの栽培、牛や羊、山羊、豚などの飼育を行い、キシュ、ウル、ウルク、ラガシュなどの最初の都市文明を生み出した。彼らの残した都市遺跡として最大のものがウルクである。ウルクは城壁に囲まれ、公共建築物をもち、約230ヘクタールの居住地をもっていた。ウルクに次いで繁栄したウルの遺跡からは王墓が発見されている。またシュメール人は、楔形文字を生み出し、最古の神話「ギルガメシュ叙事詩」を残しており、最近では多数出土した粘土板でシュメール法典の存在が注目されている。彼らの文化は、メソポタミア文明の最初の段階であるシュメール文化と総称される。最近の楔形文字を記した粘土板の解読によると、すでに役人を養成する学校が存在していたという。

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メソポタミア文明 [0101古代オリエント]

メソポタミアは、「川のあいだの地」(メソ=間、ポタモス=川)を意味し、地域名としてはティグリス川とユーフラテス川の流域全体を言う。歴史上は、エジプト共にオリエントを構成しており、人類の最古の文明発生した地域である。メソポタミア地方は、一般に現在のイラクの首都バグダードよりも北部をアッシリア、南部をバビロニアに分けている。バビロニアはさらに北をアッカド、南をシュメールに分ける。特に南部(チグリス・ユーフラテス両河の下流)は肥沃な洪積平野が広がり、メソポタミア文明が形成された。
7世紀のイスラーム勢力の勃興以来は、バグダードがアッバース朝の都として建設されてからイスラーム文化の中心となって繁栄したが、13世紀にはモンゴルの侵入を受けるなど多くの苦難もあった。長くオスマン帝国の支配を受けた後、近代ではアラブ系住民の独立運動が起きるが、シリア方面からはフランス、インド・イラン方面からはイギリスが進出し、第1次大戦から第2次大戦後まで委任統治領として分割支配された。現在は大部分がイラク共和国に含まれるが、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、イラク戦争などうち続く戦争によってメソポタミア文明の貴重な遺跡が失われる危機に瀕している。

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古代オリエントの概要 [0101古代オリエント]

古代オリエント世界は、地域的には西アジアからエジプト・東地中海岸を含む範囲をいい、時期的には紀元前4000年紀末のシュメール人の都市国家から始まり、前330年のアケメネス朝ペルシアの滅亡までをいう。西アジア(中東)のティグリス川・ユーフラテス川流域にメソポタミア文明が、エジプトのナイル川流域にエジプト文明がそれぞれ別個に(エジプト文明はメソポタミア文明の影響を受けながら)発展し、それぞれに国家を形成させ、その中間にある東地中海岸のシリア・パレスチナ地方は両者の中継地として独自の文化を形成する。ついでアッシリア帝国・アケメネス朝ペルシア帝国によってこれらの地域が統一される。これらを綜合してオリエント文明ととらえる。オリエント文明はその後、アレクサンドロスの帝国の成立によってギリシア文明と融合してヘレニズムを形成することとなる。

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