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古代オリエントの概要 [0101古代オリエント]

古代オリエント世界は、地域的には西アジアからエジプト・東地中海岸を含む範囲をいい、時期的には紀元前4000年紀末のシュメール人の都市国家から始まり、前330年のアケメネス朝ペルシアの滅亡までをいう。西アジア(中東)のティグリス川・ユーフラテス川流域にメソポタミア文明が、エジプトのナイル川流域にエジプト文明がそれぞれ別個に(エジプト文明はメソポタミア文明の影響を受けながら)発展し、それぞれに国家を形成させ、その中間にある東地中海岸のシリア・パレスチナ地方は両者の中継地として独自の文化を形成する。ついでアッシリア帝国・アケメネス朝ペルシア帝国によってこれらの地域が統一される。これらを綜合してオリエント文明ととらえる。オリエント文明はその後、アレクサンドロスの帝国の成立によってギリシア文明と融合してヘレニズムを形成することとなる。

「オリエント」の意味:西アジア・エジプト地域は、ローマから見て、東の方、つまり太陽の昇るところにあたっていた。そこからその地方を、太陽の昇る地方の意味のラテン語「オリエンス」からオリエント」と呼ばれるようになった。オリエントとはローマから見て、「太陽の昇るところ」の意味であったが、現在でも英語でOrientとは「東洋」を意味する。「東洋」にたいする「西洋」を意味する英語はOccidentである。ヨーロッパでは広い意味のオリエントに、モロッコからエジプトを経て、インド、中国、日本を含めており、近代以降は「オリエンタリズム」と言われる「東洋趣味」または「東洋学」が存在している。

「中東」の意味:かつては「中近東」という地域名がよく見られたが、最近は、西アジア一帯を「中東」ということが多い。この「中東」は、Middle East (Mideast)の訳語で、20世紀になってから、この地域を植民地支配したイギリスで使われたものである。初めは、日本・中国・東南アジアを「遠東」、ビルマ・インド・アフガニスタン・イランを「中東」、オスマン帝国領とアラビア半島を「近東」と区分していたが、第2次世界大戦で、エジプトに置かれたイギリス軍司令部が「中東」総司令部と言われるようになった。現在では一般に、東はアフガニスタン・イラン、西はエジプト・スーダン、北はトルコ、南はアラビア半島諸国に囲まれた範囲を言う。<藤村信『中東現代史 (岩波新書)』  p.2>


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