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メソポタミア文明 [0101古代オリエント]

メソポタミアは、「川のあいだの地」(メソ=間、ポタモス=川)を意味し、地域名としてはティグリス川とユーフラテス川の流域全体を言う。歴史上は、エジプト共にオリエントを構成しており、人類の最古の文明発生した地域である。メソポタミア地方は、一般に現在のイラクの首都バグダードよりも北部をアッシリア、南部をバビロニアに分けている。バビロニアはさらに北をアッカド、南をシュメールに分ける。特に南部(チグリス・ユーフラテス両河の下流)は肥沃な洪積平野が広がり、メソポタミア文明が形成された。
7世紀のイスラーム勢力の勃興以来は、バグダードがアッバース朝の都として建設されてからイスラーム文化の中心となって繁栄したが、13世紀にはモンゴルの侵入を受けるなど多くの苦難もあった。長くオスマン帝国の支配を受けた後、近代ではアラブ系住民の独立運動が起きるが、シリア方面からはフランス、インド・イラン方面からはイギリスが進出し、第1次大戦から第2次大戦後まで委任統治領として分割支配された。現在は大部分がイラク共和国に含まれるが、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、イラク戦争などうち続く戦争によってメソポタミア文明の貴重な遺跡が失われる危機に瀕している。

川の間の土地:「メソポタミア」という地名は、ギリシア語で「川と川の間の地方」の意味でティグリス川とユーフラテス川にはさまれた地方の古くからの言い方である。現在は「二つの川」を意味する「アル・ラフダイン」といわれている。なお、ティグリス川とユーフラテス川は現在では下流で一つとなり、シャトル・アラブ川となってペルシア湾に注いでいるが、古代メソポタミア文明の時代には、現在より海岸線は内陸にあり、二つの川は別々に海に注いでいた。なお、メソポタミア地方は、およそ南部のシュメール地方(その北部がアッカド地方)、中部のバビロニア地方、北部のアッシュール地方に分けることができる。
ティグリス川:ユーフラテス川の北側を流れる大河(チグリス川。現地ではダジュラという)で、アナトリア東部の山岳地帯を源流とし、東南に流れてユーフラテス川とともにメソポタミアの平原部を通り、ユーフラテス川と合流しペルシア湾に注ぐ全長約1900mの大河。古代は海岸線が現在よりも陸側に入り込んでおり、両河は別々にペルシア湾に注いでいた。ティグリス川は上流にはアッシリアの都ニネヴェの遺跡があり、中流はアッバース朝以来の都バグダードの市内を流れている。。
ユーフラテス川:ティグリス川の南側を流れる大河で、同じくアナトリア東部の山岳地帯を源流として大きく蛇行しながらシリアを経てイラクに入り、メソポタミアの平原部を通ってペルシア湾に注ぐ、全長2800mの西アジア最長の河川。現在では途中でティグリス川と合流するが、古代には河口は別であった。ユーフラテス下流ではメソポタミア最古のシュメール人都市文明が形成された。ギリシア人が「エウフラテス」と呼んだので一般にユーフラテス川というが、現地ではフラート川(アルフラート)といっている。ユーフラテス川は別名「銅の河」という意味のウルドゥ河と言われる。それは都市文明を支えた青銅器の原料の銅がペルシア湾からこの河の水運で運ばれたからである。
※参照 小林登志子『シュメル―人類最古の文明』 (中公新書)
メソポタミア文明:ティグリス川とユーフラテス川の流域のメソポタミアに成立した現在人類最古と考えられている文明最初の農耕・牧畜が始まり、その中から青銅器を持ち、楔形文字を用い、多神教に基づく神殿(ジッグラト)を中心とした都市文明が生まれ、六十進法や太陰暦などの文化が形成された。このメソポタミア文明はエジプト文明とともに、ひろくオリエント文明を構成してる。
農耕牧畜の発生から潅漑農業へ:前7000年紀(前7000年紀とは前6000年代のこと)の前半(つまり約9000年前~8500年前)、肥沃な三日月地帯にジャルモ遺跡などに見られる農耕文明が生まれた。前6000年紀の中頃、さらに両河の下流の沖積平野は定期的な洪水が起こる中で、潅漑農業が始まったと考えられる。それによって大規模な定住が進んで都市が形成されていった。
シュメール人の都市文明の形成:前3000年頃:最初に都市国家を形成し、メソポタミア文明を成立させたのはシュメール人(民族系統は不明)で、青銅器や楔形文字、多神教信仰、ギルガメシュ神話などの文化が産みだされた。シュメール以前の人種は不明)
メソポタミアの統一:前2300年頃:都市国家を統一し領域国家を形成したのはのセム系のアッカド人であり、ついでアムル人のバビロニア王国がメソポタミア中部のバビロンを都にして成立し、前18世紀のハンムラビ王の時代に最も繁栄した。

民族移動期:前1500年ごろまで:前2000年ごろか始まり、前1500年後まで続いた西アジアの大きな民族移動によってに、インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人や、カッシート、ミタンニなどの侵入を受け、鉄器時代に入る。この動きはオリエントに世界帝国を出現させる前提となった。
オリエントの統一(世界帝国の出現):前7世紀:メソポタミア北部に起こったアッシリアがエジプトを含めオリエントを統一し、西アジア最初の世界帝国となった。これによって、メソポタミア文明とエジプト文明は一体化し、オリエント文明に統合されたと言える。アッシリア帝国はまもなく倒れて4国分立時代となり、メソポタミアには新バビロニアがバビロンを都に有力であった。しかしイランにアケメネス朝が起こると、前6世紀中頃、その勢力が西アジア全体に及びメソポタミアもその支配を受ける。
メソポタミア文明の継承:楔形文字に代表されるメソポタミア文明は、アケメネス朝まで継承されているが、前4世紀になるとギリシア人であるマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征によってペルシア帝国は滅亡し、メソポタミア文明とエジプト文明をあわせたオリエント文明は、さらにギリシア文明と融合してあらたなヘレニズム文明を形成することとなる。

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