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シュメール文化-学校の起源? [0101古代オリエント]

紀元前4000紀(前3000年代)、メソポタミアで都市文明を最初に生み出したのがシュメール人である。民族系統は不明だが、メソポタミア地方南部で、都市を形成し、メソポタミア文明の基礎を築いた民族。
前4000年紀前半にメソポタミア南部に移動してきたと考えられており、その世紀の終わり頃、メソポタミア地方南部の平野部で、麦類やナツメヤシの栽培、牛や羊、山羊、豚などの飼育を行い、キシュ、ウル、ウルク、ラガシュなどの最初の都市文明を生み出した。彼らの残した都市遺跡として最大のものがウルクである。ウルクは城壁に囲まれ、公共建築物をもち、約230ヘクタールの居住地をもっていた。ウルクに次いで繁栄したウルの遺跡からは王墓が発見されている。またシュメール人は、楔形文字を生み出し、最古の神話「ギルガメシュ叙事詩」を残しており、最近では多数出土した粘土板でシュメール法典の存在が注目されている。彼らの文化は、メソポタミア文明の最初の段階であるシュメール文化と総称される。最近の楔形文字を記した粘土板の解読によると、すでに役人を養成する学校が存在していたという。
シュメール人は一時メソポタミア中部に起こったアッカド人に制圧された後、ウル第3王朝を復興させたが、前1800年頃にはアムル人のバビロニアに征服された。以後、メソポタミアの主力はアッカド人やアムル人などセム語族系の民族となる。
episode シュメール人の謎 シュメール人は、彼らの残した都市、楔形文字、青銅器など、その後のメソポタミア、オリエントに大きな影響を残した。しかし後にこの地方で支配的になるセム語とはちがう言語(日本語にちかい膠着語に属する)を用いていた。自らは黒髪人と称していたらしいが、残された遺跡、遺物に描かれたシュメール人は、目が異様に大きく、独特の風貌が見られる。現在はまったく残っていないので、「謎の民族」とされている。その歴史は彼らの残した楔形文字の解読が進んだ結果、明らかになってきた。その王たちの交替は「シュメール王名表」(「シュメール王朝表」ともいう)に記され、その中の王ギルガメシュを主人公とした英雄叙事詩も残されている。
episode シュメルかシュメールか 最近刊行された『シュメル-人類最古の文明』(小林登志子著、中公新書2005年刊)によると、原音に近い表記は「シュメル」であるが、日本で「シュメール」と表記するようになったのは、第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇のことを「すめらみこと」というが、それは「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行していたので、シュメル学の先達の中原与茂九郎(京大名誉教授)が混同されないように音引きを入れて表記したという。<『シュメル-人類最古の文明』(小林登志子著、中公新書2006年刊)はしがき>
episode 学校の起源-「粘土板の家」 メソポタミア文明、シュメール人のウル第3王朝のシュルギ王は自らを讃える讃歌を残しているが、その一節に「少年のころから、私は学校に属し、シュメル語とアッカド語の粘土板で書記術を学んだ」と書いている。行政官、軍人は文字を読み書きできることが仕事とされ、王にとっても必須能力とされていた。学校はシュメール語でエドゥブバ「粘土板の家」と呼ばれ、書記つまり役人養成を目的としていた。古バビロニア王国では王宮から粘土製の長い椅子を並べた部屋が発見され、学校と考えられている。シュメール人の王名表や神名表なども教科書として使われたのであろう。学校を題材にした文学作品の残っており、学生の一日を伝える『学校時代』では、弁当を持って学校に行きった生徒のこんな話が載っている。
「・・・ぼくは(校舎に)入って座り、そしてぼくの先生はぼくの粘土板を読みました。先生は『間違っている』といいました。そして先生はぼくを鞭でたたきました。・・・ぼくの先生は『君の文字は下手だ』といいました。そして先生はぼくを鞭でたたきました。」誤字をしかられた生徒は父に先生を招いてもてなしてほしいと頼む。父は先生を招いてなつめやし酒を飲ませ、食事を出し、衣服などを贈ったところ、先生は手のひらを返したように生徒をほめた・・・という。

※参照 小林登志子『シュメル―人類最古の文明』(中公新書) p.204-210


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